味は舌で味わい、脳が評価する
味の評価は「舌で味わい、それを最終評価するのは脳である」ということ。
すなわち、口に含んだときに感じた舌の味蕾からの情報は、味神経線維を伝わり脳幹(延髄孤束核)~大脳皮質の味覚野を伝わり、前頭連合野まで到達。同時に視床下部や扁桃体にも情報が送られる。
味以外の情報(香、見た目、食感等)は口や目や喉等、体の各部分で認識され、大脳皮質の各感覚野に伝達される。
以上の情報は大脳皮質連合野に到達し、“美味しい”“不味い”等の判断が行われ、その食べ物の総合評価を決定。
その後、内臓感覚の情報が扁桃体(重要)で過去の記憶も合わせて伝わり、視床下部へ至り、“好き”“嫌い”の判断をするわけです。
よって、私が重要視しているのは視床下部の判断に影響する「その場の雰囲気」。これを味わうために現地まで行って食したい衝動に私は駆られるわけです。
素材・現地の雰囲気(水・空気・景色・環境)が揃うのが産地で食すということになります。
百貨店の物産展(雰囲気を味わう)や地元直売所、市場内食堂、漁港食堂(まさしく産地で食す)で食べると美味しいと感じるのは素材のこともありますが、多くは雰囲気も一緒に食していて、それが大きく影響していると思っています。
「味の評価」は実食時の天候・気温、店内環境、その日の体調だけでなく過去の経験等々、その他を踏まえて、その時々の自身のあやふやな感想を述べているだけのような印象。
他人には絶対に知ることができない個人的な事情を踏まえているので、味の評価には疑問が残ることが多い。
また、他人を意識するあまり、他人(特に有名人)が評価を高くすると自分だけ低く評価し辛いという、日本人あるある的な評価も気になる。
「あなたの美味しいは私の美味しいではないし、その逆も真」。
ただし、例外がある。分析力、コミュニケーション能力も必要。「絶対食感」を持つ人。
そういった“プロフェッショナル”な方々の評価を参考とすることは有意義と思われる。
もっとも、付和雷同的な「あの人が評価しているから」というのはちょっだけ恥ずかしいので自分は使いません。
私はプロフェッショナルではないという自覚
私は「原材料そのものの価値」を最重要項目として、価値の高い原材料の味を損なわない流通や調理方法を採用した料理の味を嗜好する。併せて店内の表示や装飾・接客・雰囲気等も重要視していて、非衛生的な環境や表示に不信を感じた時はどのような老舗・人気・某ガイド掲載店であっても評価は低くなる傾向にある。
私には“絶対食感”はありませんが、時折、自分は絶対食感があるというような思い込みで記事を書くことがあります。
この点については常に反省しているが、その時に自分が感じた・想ったことは大事にしたいと思っています。
それでも、以前、某有名店シェフから「訴えてやろうか」とすごまれた時は「ハイハイごめんなさ~い」と謝って、自身の記録表現を変えるという、軟弱で優柔不断な対応をするくらいの信念を持たない柔軟(^ー^)な姿勢を取り繕っています。